Lady Green's Diary

英語講師Lady Greenの日記

Book Club Discussion: 日系アメリカ人を主人公にした『No-No Boy』

今回は最近読んだ本の話です。先月のBookclubでディスカッションした作品なのですが、日系アメリカ人を主人公にした小説『No-No Boy』です。

 

 

こちらの本は以前にもこのブログで紹介したことがあります。私にとって思い入れのある作品です。大学生の頃に読んで凄く心に残った作品で、Bookclubに参加するようになって「いつかBookclubでも取り上げられたらいいのになぁ」と思っていました。そして、ついに念願叶ってpickupしてもらえることになったのでした!初めて私がこの本を読んだのは20年位前のことで、今は新版になって再リリースとなっています。前書きも新しく追加されているということで、改めてKindleで新しいものを購入して再読してみました。新しい前書きは同じく日系アメリカ人作家であるRuth Ozeki氏によるもの。この前書きも良くて、改めて作品の持つ力を再認識することが出来ました。

 

この作品、実はそのバックグラウンドも非常に面白くドラマティックです。作者のJohn Okadaさんは日系人アメリカ人作家ととして本を出版した最初の人。とても素晴らしい作品なのですが、1957年に出版された当初は全く読者に受け入れられませんでした。日系アメリカ人のコミュニティからすらも受け入れられず、ほとんど葬り去られそうになっていた作品でした。第2次世界大戦後のアメリカを舞台にして、主人公は徴兵を拒否して服役したIchiroが出所してきたところから始まります。彼は自分が戦争に行かなかったことを深く後悔しています。当時多くの日本人・日系人強制収容所に入れられていたことはよく知られた話ですし、収容所での体験や、日系人部隊が戦争で活躍した話などはよく語られていると思うのですが、徴兵を拒否したNo-No Boyと呼ばれた人たちのことや、日系アメリカ人同士の間であった差別について語られることは多くない気がします。Ruth Ozeki氏が前書きに書いているように、当時の日系人たちはアメリカ社会に溶け込むことに一生懸命で、作品に書かれている内容を受け入れる準備が出来ていなかったのだと思います。

 

この本が「再発見」されて認められるようになったのは、1970年代に入ってからのこと。中国系アメリカ人作家ジェフリー・チャン氏が、たまたまジャパンタウンの本屋で見つけて感銘を受け、他のアジア系作家たちと共に尽力して再出版にこぎつけた。そうしてようやく認知され受け入れられるようになったのですが、残念なのはそのほんの数か月前に作者のジョン・オカダ氏が亡くなっていたこと。その辺りの経緯も本の前書きやあとがきに書かれているのですが、読んでいて本当に切なくなります。オカダ氏の妻を訪ねていった時のことがこんな風に書かれています。

 

Dorothy is a truly wonderful person. It hurt to have her tell us that "John would have liked you." It hurt to have her tell us that "you two are the first ones who ever came to see him about his work."(ドロシーは本当に素晴らしい人です。彼女が「ジョンはあなた達のことを好きになっただろうと思います」と言うのを聞くのは辛かった。「彼の作品について聞くために訪ねてきたのはあなた達2人が初めてです」と言うのを耳にするのも辛かった)

 

結局彼が残したのはたった1冊の作品だけでした。でも、それが日系アメリカ・アジア系アメリカ文学のclassic(古典)として今もずっと読み継がれている。そんな作品の背景も作品そのものと同じくらいに印象的なのです。

 

私は20年ぶりにこの作品を再読してみて、改めて主人公の言葉の持つパワーに圧倒されたし、彼の苦悩がひしひしと伝わってきました。実は、最初に読んだ時は主人公があまりにネガティブであまり魅力的な人物と感じられませんでした。でも、当時の日系アメリカ社会で、No-No Boyとして生きていくことがどれほどに難しいことであったかと思うと、彼の絶望感は致し方ないのかもしれないと思います。それでも、色んな人物との出会いを通じて最終的には「一筋の希望」を見出します。

 

作品で描かれているのはアメリカ社会で非白人として生きていくことの難しさ。どんなに命がけで戦争で戦っても相変わらず日本人・日系人への偏見・差別が存在する事実へのやるせなさ。そしてそれゆえに、戦争に行った二世たちが、行かなかった二世たちを差別するという、差別の複雑な構造。

 

... when one is born in America and learning to love it more and more every day without thinking it, it is not an easy thing to discover suddenly that being American is a terribly incomplete thing if one's face is not white and one's parents are Japanese of the country Japan which attacked America.(...アメリカで生まれ、気がつくと日に日にアメリカを愛するようになっている。そんな中で、白い顔を持たず、両親がアメリカを攻撃した日本という国の出身である自分が、アメリカ人であると言うには恐ろしく不完全なのだということを突然に気づくのは、簡単なことではないのだ)

 

アメリカで生まれ育った二世たちは、当然のごとくアメリカを愛するようになり、自分はアメリカ人だと当たり前のように思っている。でも実は、白人の顔を持たず、日本人の親を持っていると、アメリカ人として不完全なのだといういうことをある日突然思い知らされる。Ichiroはそのことに気付けずに、間違いを犯してしまったんだと言います。戦争に行ってアメリカのために戦い、自分がアメリカ人であることをちゃんと「証明」するべきだったんだと悔やんでいる。

 

この作品は決してハッピーな話ではないし、アメリカ社会の如何ともし難い人種差別の問題を扱っているのだけれど、それでも読後感がなぜかさわやかな気がするのが不思議で、それがこの作品の魅力でもあります。絶望的な状況の中に一筋の光が差し込んでいるような感じです。作品が書かれて50年以上が経つけれど、今読んでも内容は色褪せていないし、普遍的なテーマを扱っています。一部で言われているように文章には粗さがあるのかもしれないけれど、そこに作者の「書かずにはいられなかった思い」を感じて心に刺さるのです。

 

Bookclubのメンバーたちがこの本を読んでどう思うだろうかと非常に気になったのですが、概ね好意的に受け取ってくれて、「良かった」と言ってくれたのが、まるで自分のことのように嬉しかったです。Ichiroの友人として登場するKenという人物がいるのですが、私は最初に読んだ時から彼のことが好きで、それをメンバーにも伝えたところ、アメリカ人のメンバーが同じように「私も彼が大好き」と賛同してくれたのも嬉しかった。私にとって大事な作品を、Bookclubのメンバーとシェアできたことをとても光栄に思います"。

 

もしもこの記事を読んで気になると思って下さったなら、ぜひ『No-No Boy』を読んでみて下さい。